ここ数年。
ずーっと、ずーっと、考えてきたことがある。
”昔ほど、自分を見つめることがなくなった”
”何かに対して、何かを考え、思い、気づくことがなくなった”
”何も、浮かんでこない”
キミは、こう言ってるが、違うキミは、ああ言ってる。・・・・・・じゃあ、自分は?
何が正しいのか、わからない。
何が間違ってるのか、わからない。
キミは、こう思って、こういう考えを持ってる。
でも、それに批判的な違うキミは、
きっと、いろんな経験や、
今まで積み上げてきた、自分なりの考えがある。
じゃあ、何が正しい?
確かに、これもわかるけど、あれもわかる。
いつも迷宮入りだった。
ずっと出てこれなかった。
だから、結果的に、自分の意見を、
持てずにいた。
自分の意見など、持てるはずもなかった。
だって、
何もわからない。
何も感じれない。
何も考えれない。
何も思いつかない。
何も見つからない。
何も気づかない。
目に映るものは、目に映るものでしかなかった。
隠されたものなど、微塵も見つけられなかった。
けど、何だか少し、ぼんやりと見えた気がした。
これが答えかどうかはわからない。
人によっては、”×”をつける人もいるだろう。
けど、思ったんだ。
”自分は、人を評価するための’何か’が欲しかったの?”って。
自分が見たかったものは、
自分が欲しかったものは、
人を評価するための思想じゃない。
自分を持つための、思想が欲しかった。
だから、初めから、
人の善し悪しを判断するための思想など、
なくてもよかった。
人を批判するための思想など、
必要なかった。
自分が自分であるための思想が欲しかった。
自分が自分でいるための思想が欲しかった。
批判がよくないとか、
そういう話ではなくって、
評価することが悪いとか、
そんなこと、微塵も思ってなくて、
ものすごく、単純に、
今、自分が会いたいと思える人に会うために、
今、自分が会いたいと思える人に気づくために、
今、自分が見たいものを見るために、
今、自分がしたいと思えることを、見つけるために、
今、その見つけたものと、向き合うために、
そのために、自分が自分の考えを持って、
自分の意思を持って、
自分の思想を持って、
それを、心に秘めて。
何が正しい、正しくないではなくて、
そのための基準や考え方ではなくて、
単純に、純粋に、
自分が自分であるための思想や、基準や考えが欲しかった。
少し、見え方が変わったことで、
次に見えてくるものがあるだろうか。
けど、どっちにしても、
自分から見ようとしないと、
見えないものまでは、見えないでしょ。
あー
結局また、どんどん話がずれて、
収まりが悪い。。。
けど、自分はとても、躍起になっていることは、間違いないのである。
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